リスペクト真善美 田中吉政編

date: 2010/07/30

田中吉政公
猛暑お見舞い申し上げます。
ござる7代 許斐です。
今回もリスペクトと題しまして、尊敬する地域の事柄について述べさせて頂きます。
今から400年程前、八女福島には三層掘の立派な城が在りました。
それは天正15年(1587)筑紫広門が築いた福島城を、慶長5年(1600)に 田中吉政が修造した城で、吉政の三男康政が治めていました。
田中吉政は豊臣秀吉の譜代武将で、同じく子飼いの石田三成とは幼馴染でした。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで両者は対峙し、敗れた西軍の大将 石田三成を生け捕ったのは、何を隠そう田中吉政でした。
吉政は三成の身柄を丁重に扱い、「ニラ雑炊」で もてなしたと言われています。
もともと吉政は三成からの信頼も厚く(吉政が15歳年上だった)、三成は捕まる相手を吉政に選んだとも言い伝えられています。
筑後国
関ヶ原戦の後、東軍大将 徳川家康から、豊前と豊後の一部か、筑後一国を恩賞として与えられることになり、吉政は筑後に入国することを願い出、筑後32万石が領地として与えられます。
その後、柳川に居を構えた吉政は柳河城の支城として、筑後福島城を修造し、現在の八女福島城下の基盤が築かれました。
筑後領主としての在任期間は、慶長6(1601)年より同14(1609)年までの、わずか8年ですが、織田・豊臣政権に仕えた様々な経験から培った技術や知識を生かし、城づくり、町づくり、治水工事、地場産業育成など筑後地区の基盤整備を行いました。
(筑後入国の前は愛知県岡崎市の近世城下の基盤を作った)
例えば、城(柳川城と福島城などの支城)づくり、城下町づくり、新町(津福町・土甲呂町・大角町・横溝町・下田町など)づくり、道(田中道など)づくりのほかに矢部川の水を柳川の街に導き、「掘割に浮かぶ街」をつくりました。
また慶長本土居の築堤、有明海沿岸の干拓、筑後川・矢部川の治水工事、山ノ井川・花宗川その他の小川・溝・堀などの水利系路の整備をしました。
溝口の和紙、蒲池の陶器(蒲池焼)、上妻の茶、下妻の藺草(いぐさ)など、郷土の産業を盛んにしたともいいます。
田中吉政は将来性を買って筑後国に入部しましたが、与えられた土地で精一杯の努力とアイデアで領国経営に当っていたに違いありません。
そんな姿 イメージが見えてきました。
しかし、慶長14(1609)年、田中吉政は江戸参府の途中、伏見(京都市)の旅亭(りょてい)で62歳で亡くなります。
家督を継いだ四男忠政は慶長20(1615)年、大坂夏の陣で病のため遅参し、幕府の疑を受けました。
元和6(1620)年、江戸に滞留してその罪を謝していましたが36歳で亡くなり、嗣子なく、田中家は断絶します。
現在、田中吉政は土木の神様として、久留米市津福本町の津福八幡宮境内の「田中神杜」、大木町土甲呂の住吉社境内の「吉政公を祀る祠」、同町横溝町の「兵部(ひょうぶ)神社」で地元の人たちに、ひっそりと祀られています。
八女福島の町も田中吉政の築城技術やインフラ整備があったからこそ、今の世に引き継がれているのかも知れません。
吉政公だけではなく、その技術を支えた八女の先人たちの労力にも頭が下がります。
ありがとうございます。
合掌
引用文献 :「田中吉政公とその時代」 田中吉政公と慶長本土居築堤四百年記念祭発行冊子/半田隆夫氏筆 (シニアネット久留米アーカイブ製作班記)

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