リスペクト 龍馬伝 大浦慶編

date: 2010/02/21

すっかりご無沙汰で、今更ですが、あけましておめでとうございます・・・。
充電期間を経てひとまわり大きくなって帰ってきた  ござる7代です。
只今、箱雛の里 八女では、2010ぼんぼり祭りが行われております。
しか~し
本日は全く関係なく、今年の大河ドラマ「龍馬伝」ネタで吟じたいと思います。
幕末、龍馬を支えた多くの人々たちの中に大浦慶なる女性がいました。
大浦慶
彼女は日本茶貿易の先駆者で、当時の女性としては珍しく外国人を相手に商売で成功し、国際的な感覚を持ち合わせ、なおかつ商才にたけていた長崎の女傑です。
お慶は文政11年(1828)、長崎の油屋町にあった油問屋「大浦屋」に誕生します。
しかし幕末、お慶の時代になると外国産の輸入油に押され、油屋町のどこの油商も経営難に陥ります。
お慶の家もご多分にもれず傾いておりました。
お慶は油商に見切りをつけ、茶の輸出計画を試みます。
鎖国時代から唯一の貿易窓口だった長崎。
当時、日本茶はオランダ東インド会社によってオランダ人の手によりヨーロッパに向けに船積みされていました。
嘉永6年(1853)、お慶は直接出島のオランダ人・テキストルという人物に佐賀の嬉野茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ってもらいます。
それから3年後の安政3年(1856) 、見本を見たイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルトが長崎に来て、見事にお慶に大量の茶を注文します。
オルトからの発注を受け、お慶は一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカ輸出しました。
ここでお慶は、巨額の注文に嬉野産の茶だけでは応じきれず、九州一円の茶の産地を駆け回り、1万斤をようやくアメリカへ向け輸出させたそうです。
これが日本における本格的製茶輸出貿易の先駆けとなりました。
このときにお慶が輸出用の茶を集めるため、八女にも足を運んだと考えられているのです。
それは、なんだかとってもありそうな気がする♪
現に八女の茶業関係の資料に「当地方で文久三年(1863年)長崎港にて英国人と茶の直接取引を開始した」という記述が残っており、また私のところでも本家の記述として慶応元年に茶問屋を開いた記録が残っており(以前は当家では茶を含めた山産物問屋を商っており、矢部屋として八女福島で営業しておりました)、お慶が開いた貿易ルートをもとに日本でお茶に特化した商売ができる時代が訪れようとしていました。
日本が鎖国から開国していく時代に、いち早くグローバル化に対応していった当時の福島商人の気概を感じます。
私はただただ頭が下がる思いです。
さらに、慶応2年(1866)長崎では港からの日本茶の輸出がピークに達したともあります。
お慶は竜馬と親交があり、パトロンとして支えました。
ということは
八女のお茶も幕末の歴史と繋がって
いると思います!

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